世界文化遺産「原城跡」

2020年3月9日by 佐々木 良子ブログ家族や身内の事

この日最後に訪れたのは島原・天草一揆の終焉の地となった世界文化遺産『原城跡』
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1637年(寛永14)10月、島原半島南部と天草諸島のキリシタン農民が主体となり幕藩権力に抗戦した一揆が起こりました。
いずれも、元はキリシタン大名が治めていたところで、多くのキリスト教信者が住んでいました。
しかし、新しく入ってきた藩主は、キリスト教を弾圧し、重い年貢をかけました。
これに飢饉の被害が加わり、ついに民衆が立ち上がったのです。
一揆の総大将は、キリスト教信者で宗教的カリスマ性を持っていた「天草四郎」という16歳の少年でした。
四郎は3万人を超える民衆を率いて原城に立て籠もり、幕府や藩の軍勢と戦いました。
この時、民衆側が掲げた旗が、今も残っています。
血の痕や、鉄砲の弾であいたと思われる穴が、戦いの激しさを物語っています。
立て籠もりから4ヶ月。
兵糧攻めが続き、原城内の弾薬と食料はほとんど尽きかけていました。
一揆勢は原城の断崖絶壁を海まで下り、海藻をとって食糧の足しにしたといいます。
幕府側の指揮者・松平信綱は城外に討って出た一揆勢の死体を見分して、海藻しか入っていない、つまり城内にはもう食糧が残っていないということを確信すると、1638年4月12日を総攻撃の日と定めます。
しかし、その前日に手柄をねらっていた諸大名が我先にと抜け駆けしたため、なし崩し的に攻撃がはじまりました。
弾薬も食糧も尽きている一揆勢に対し、12万人余りの幕府軍が襲いかかりました。
原城は一日で陥落し、天草四郎はじめ、籠城していた民衆37000人ほぼ全員がここで命を落としました。
幕府軍に徹底的に破壊、殺害されたのです。
近年の原城跡の発掘調査では、刀傷が刻まれた人骨、遺体の口元近くのメダイ、また鉛弾を溶かしてつくったと考えられる十字架などが出土しました。
原城跡で見つかったこうした出土品は、戦いの壮絶さや籠城していた人々の信仰心を今に伝えたのです。

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本丸跡
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天草四郎像
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3万7000人の一揆軍はこの海をどんな思いで見つめていたのでしょう。
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天草四郎の墓
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鳥取からの援軍、幕府軍の佐分利九之丞の墓
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こんな美しい場所で12万人と3万7000人が戦いを繰り広げていたとは・・・。
広い城跡は静寂に包まれ、歴史の重さも相まってもの悲しさを感じずにはいない場所でした。

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